SNSやテクノロジーの普及により、企業や団体と個の関係が今までになく近づいている今、企業も愛される「人格」を備え、その魅力をストーリーとして伝えることの重要性が高まっています。人々に親しまれるストーリーテリングの手法として、今回は江戸時代から多くの人に愛され続けてきた「落語」にフォーカスを当ててみました。

300年以上続く伝統芸能でありながら、庶民の生活に寄り添って人情を語り続け、笑いと涙を誘う落語。時代とともに生活スタイルが進化し、人々の思考や価値観も変わっていく中で、変わらず守り続けていること、そして変革に挑戦していることとは?

今、最も注目される若手落語家であり、テレビや雑誌、Voicyといった音声メディアでの情報発信にも積極的に取り組んでいる立川吉笑さんを訪ねました。


Profile

立川 吉笑 Kisshou Tatekawa
落語家

1984年生まれ。京都市出身。立川談笑門下一番弟子。2010年11月、立川談笑に入門。わずか1年5ヵ月のスピードで二ツ目に昇進。古典落語的世界観の中で、現代的なコントやギャグ漫画に近い笑いの感覚を表現する『擬古典<ギコテン>』という手法を得意とする。2019年4月からは毎月第一土曜に東京・表参道で開催している独演会『立川吉笑ひとり会』を開催。2015年には初めての単行本『現在落語論』(毎日新聞出版)を刊行。


落語の修業は、技術ではなくて「了見」を学んでいる

─ かつてはお笑い芸人を目指して活動されていましたが、26歳で落語の世界に入られました。方向転換の決め手となった落語の魅力とはなんだったのでしょうか。

立川 吉笑さん(以下、敬称略):大きく二つあります。まず「落語」という形式は、漫才やコントではできないようなことができるという点です。笑いの表現のスタイルとしてめちゃくちゃ可能性があるなと。もう一つは、「生活が安定しやすい」という点ですね。

─ なんというか、非常に現実的な視点ですね。

吉笑:表現活動をしていくうえで、お金の話って不純な感じがしますよね。「お金なんかなくても自分のやりたいことを表現するんだ!」と言いたいところですが、それができるのってほんの一握りの天才だけで。

大半の人はバイトをしながらお笑いや演劇、物書きとしての活動をしている。自分の周りを見ていても、30歳くらいを境にどんどん辞めていってしまいます。原因はいろいろあるけれど、突き詰めるとほとんどがお金の問題です。僕は、お金のことが原因でやりたいことができなくなるのは絶対に嫌だなと思っていました。その点落語の世界は「師匠と弟子」「先輩後輩」上が下を助けるという相互補助の仕組みがあります。僕は「ギルド制」という言い方をしているんですけど、小規模な経済圏が成立しているんです。

─ 徒弟制度の残っている落語の世界だからこそ、経済面では守られているんですね。一方で、師匠のお世話をしたり下働きをしたりと、昔ながらの修業の期間が長いという印象もあります。変化のスピードが加速する現代社会で、時間をかけて師匠から芸を学ぶ、その意味をどのように考えていますか。

吉笑:以前、著名な起業家の方が「寿司職人になるのに何年も修業する必要なんてない」と発言して話題になりましたよね。確かに、レシピを教わりさえすれば、明日にでもできるといえばできるような気がする。

落語も同様で、ネタに著作権があるわけでもないですし、弟子入りしなくたって勝手に覚えて勝手にやってもいいんです。いろいろと細かい技術は必要なので、そう簡単には模倣できないと思いますけどね。

この人から学びたいという師匠に付いて、もちろん落語の稽古もするんですが、お茶を出したり師匠の着物を畳んだりといういわゆる前座修業という下働きをずっとやるんです。それは面白い落語をやるにはなんの効果もない気もするし、実際、直接的な効果はないと思うんですが、そこで我々が習得しているのは「了見」というものなんです。

─ 了見、ですか。

吉笑:立ち居振る舞いや空気感も含めた、落語家としてのセンス、気構えというのでしょうか。了見を一旦習得してしまうと、あとはどこに行っても落語家でいられる。

さっきの寿司職人の話でいうと、確かに握り方の技術やレシピを知ればおいしい寿司はできるかもしれない。けれど「寿司職人」としての振る舞いはできないはずなんです。修業した寿司職人なら、フランス料理店にいても寿司職人でいられる。そこに価値を見いだすかどうかは別の話ですけどね。

我々が修業によって師匠から受け継ぐものは、もちろんネタ、コンテンツでもあるんですが、その中に流れる「了見」、やっぱりこれが大事です。

─ 簡単に言語化して伝えることができないものですね。

吉笑:そうそう。言語化できない、それがポイントです。要素としてはバラバラに点が散らばっているだけで、どこを取っても繋がっていない。修業を通して、そのバラバラの点を受け取って、自分の中で繋げて血を通していくんです。そうして落語家の了見を身につけていく。

例えば立川志の輔師匠が作る新作落語は現代が舞台ですが、その世界観はどう見ても古典落語です。なぜかというと、登場人物の動きが全部落語的だから。一度落語家としての了見を吸収していれば、描かれる世界がどうであれ、すべて落語になります。

それから、師匠がたはお客さんの“感じ”を見極める解像度がものすごく高いですね。ある落語会でのことですが、前半はお客さんがけっこう重たい感じで全然ウケていなかったんです。自分の出番は休憩後の後半のトップだったので「これ、きついな。どうしよう」と思っていました。

そんな自分に落語界の重鎮ともいえる師匠が「こういうお客さんは休憩明けで一気に空気が変わるから、もう大丈夫だよ」と声をかけてくださって。で、やってみたら確かに、普通にウケるんです。びっくりして。自分はまだ落語家として備えるべきアンテナを持てていないなと痛感しました。

─ その感覚は、一朝一夕に身につけられるようなものではなさそうですね。

吉笑:師匠がたはみんな「そもそも言語化するなんて野暮ったい」っていう価値観の人が多い。だから、見て盗むしかないですね。

師匠のお世話ともいえる前座修業も「好きで入門した師匠を快適にできない奴が、まったくの他人であるお客さんを楽しませるなんて無理」という考えが基にあるんです。師匠に対する気遣いの勉強も、お客さんに対面したときにどう喜ばせてあげられるかという空気を読む力や、話芸としてのテクニックに繋がっていくんですよ。

座布団に座って喋るだけ。だからこそどんな世界でも表現できる

─ 冒頭でおっしゃった、「笑いの形式のひとつとしての落語の可能性」について、詳しく聞かせていただけますか。

吉笑:漫才やコントならではの面白さもありますが、やっぱり落語を知れば知るほど、表現方法として優れていると感じます。

落語には、“何もないから、何でもある”んです。舞台装置もセットもなければ、役者もいない。衣装チェンジもなく、ただ一人で座って喋っているだけです。いろんなものを省略することで、逆に見る人の脳内補完を促して世界を作るんですね。

だからこそ瞬時に場面転換ができ、登場人物が入れ替わることができます。落語家は正座して話していますが、あれによって下半身が省略されるんですよ。もし舞台の上に立っていたら、歩いたり走ったりできますが、おのずと距離感やスピードが舞台の上で決まってしまいます。でも落語の場合は下半身が省略されているから、どこまでも走れるしどれだけの速さも出せる。

─ 話術ひとつで、どんな世界でも創り出せるんですね。

吉笑:もうひとつ落語の特徴は、言葉でつないでいく芸術だから、矛盾がバレにくいんですよ。タイムラインで流れていく言葉の積み重ねであり、前に言ったことはすぐ過去になって消えていきます。その瞬間に信じ込ませることができたら、よくよく考えたら矛盾していたとしても違和感がないんです。

それによって何ができるかというと、現実的ではない、シュールな笑い、不条理、ファンタジックなものが描けるようになります。

口ならいくらでも出まかせが言えますからね。CGを使わなくたって「そこに鬼がいる」と言ったら鬼が、「上半身が人で下半身が馬の生き物がいるぞ」って言ったらその瞬間にその生き物の絵が目の前に見えるわけです。それも落語のひとつの特性です。

そう考えると、世の中にないものを描くほうが落語の特性を活かせる気がするのですが、そういう落語のほうが少ないですね。古典落語はだいたい9割が江戸の風情とか日常、人々の機微を表したものです。もちろんそれもいいけれど、自分としては落語の特性を活かして、ファンタジックなネタももうちょっと増やしたいと思っています。

─ 落語というと、江戸を舞台にした古典落語と、戦後にオリジナルでつくられるようになった新作落語がありますね。吉笑さんはどちらの方向に立ち位置を置いたのでしょうか。

吉笑:お笑い芸人を目指していた自分は、お笑いの手法の一つとして落語に可能性を感じていましたから、落語界に入門したらどんどん自分らしさを出していきたいと思っていました。とはいえ伝統的な世界ですから、入門直後から好き勝手やることはできないだろうなと。まず古典落語を勉強することに時間を費やすことになるかもしれないと予想していました。

でも、ちょっと待てよと。そもそも「古典」って、誰がどうやって決めたのかなと思って調べてみたんです。すると、どうやらおおよそ昭和20年代に、身近な題材をネタにして作られ始めたのが新作落語、それ以前に存在していたものを「古典落語」と呼ぶようになったと。新作と古典の定義は、意外とあやふやだったんです。

じゃあ、自分が作った落語をあくまでも古典だと言い張ったら、誰が否定できるかといったら、できないんですね。「うちのお祖父ちゃんが江戸時代に落語作家をやっていて、家宝として残ってるんです」と言い張ったら……? 否定されないじゃないですか(笑)。

─ なるほど、そこで吉笑さんが得意とされる「擬古典(舞台としては古典らしい江戸を設定しているけれども話としては創作)」という手法にチャレンジされたわけですね。入門当初から戦略があったと。

吉笑:入門前から「擬古典」をやろうという思いを抱えて、師匠のもとに行きました。でもフタを開けてみるとうちの師匠はわりとフレキシブルで、「やりたいことはどんどん試していいぞ」と言ってくれる人だったので、だいたいのことは自由に試すことができたんですけどね。だから最初から、自分が面白いと思うものを、落語という手法を使ってどこまで表現できるかを考え続けているんです。

伝統と大衆、双方のバランスを奇跡的に保てているのが落語

─ 落語は300年ものあいだ受け継がれてきた伝統芸能だそうですが、他の伝統芸能より自由な感じがしますね。

吉笑:立川談志師匠は「能と狂言は完全に伝統芸能になってしまった」と本に書いています。伝統性だけで止まってしまうと、どんどん現代の生活からは乖離していってしまう。落語は歴史を受け継いできた伝統芸能ではありますが、その時代の人々の心を掴んできた大衆芸能でもあります。

では、大衆性を大事にすれば長く続く芸能になるかというとそうではない。伝統性がなくなっちゃうと、それはただのお笑いになってしまいますから。そうなると本当にお笑い芸人さんとの戦いになってしまって、いかに斬新なことを言えるかという、消費されるサイクルにはまっていくことになります。

落語は、古くから継承されてきた伝統芸能というラベルがあるからこそ、長く親しまれ、守られてきました。ただそれだけではなく、時代背景に合うようにブラッシュアップしていくことで大衆性も保たれているという、奇跡的なバランスでここまで来ているんです。

最近、生物学者の福岡伸一さんが提唱されている「動的平衡」に関心がありまして。われわれ生物の細胞は絶えず分解されて、同時に新しいものが作られている。そのバランスが釣り合っているから、生物の形を保っているという話です。それこそが生命、生きているということにほかならないと。

文化や芸能も確かにそうで、ずっと止まったままだと、腐ったり淀んだりしていってしまう。でも落語は、破壊されていったとしても、現代世界で再生のサイクルがギリギリのところで回っているから、今でも皆さんに楽しんでもらえるエンタメとして生き残っているんですね。

年齢を重ねるほど説得力が増すのは、落語ならではの魅力

─ 落語を笑いの表現手法として、その可能性を追求している吉笑さんですが、これからも、あくまで落語という型の中で活動を続けていかれるのでしょうか。お笑いや表現の世界というと、他の道も考えられると思いますが。

吉笑:なんだかんだで、落語がいいですね。落語が他のお笑いジャンルと違うところは「年をとる」ことがプラスに働きうるというところなんです。お笑いって、どうしてもセンス、切れ味の勝負になる要素が強いので、やっぱり若い時の瞬発力が基本的には勝つんです。

どれだけ笑いの神様みたいなすごい人でも、年をとるとズレてきちゃう中で、落語家はむしろ年をとることで説得力が増してくるんですね。生きていくうえで、年をとるほど良くなるなんて、こんなポジティブなことってなかなかないじゃないですか。

─ 経験値がものをいうというか。

吉笑:逆に言ったら、若手のときは、特に古典落語をするのはキツいものがあるんです。要は登場人物が喋っている内容が、どうしても自分自身とズレてしまう。年をとってくるとそこが溶け込むようになってくるんです。

例えば、昭和の名人の一人といわれる5代目の柳家小さん師匠はめちゃくちゃ面白くてすごい人なんですけど、小さん師匠と同じように我々がやっても、全然ウケないんですよ。

やっぱり小さん師匠の人格、風貌含め、すべてが重なって面白みが出るんです。

じゃあ我々はどうするかというと、例えば小さん師匠が「とん、とん、どん!」と3ターンで作る笑いを、さらに4ターン説明を足して7ターンの流れをつくってウケるようにするといった補い方をしていくんです。

─ 名人には太刀打ちできないんですね。

吉笑:笑点の大喜利も、ゴリゴリの尖った笑いの信者だった自分からすると面白くもなんともなかったんですけど、いざ落語界に入門してみたら、実は自分の信じてきたお笑いとは違うすごさがあると気が付きました。あれはもう、何を言うかという勝負じゃなくて「誰が言うか」で勝負してらっしゃる。人間力で勝負しているところがあるんですね。

─ 人間としての魅力を蓄積していくことで、より高みを目指していける。希望が持てますよね。

吉笑:皆さんが身近な企業活動やベンチャーの世界でいうと、情報勝負の世界だから、結局のところ常に新しいことをやっていかないと勝てないという価値観が強いかもしれませんね。でも落語的な感覚だとそうじゃない。

わからないですけど、SEの業界に例えるなら、「全然拙いんだけど、この人が書くコードだからいいんだよね。ちょっとエラーが出ちゃうけど、やっぱりこの人に任せたいんだ」って言われるような技術(笑)。そういう芸を身につけるのが、我々の仕事です。

情報というものはいつか均質化してしまうものだから、情報自体に価値があるわけじゃないでしょう。それだけじゃつまらなくなってしまう。

落語なんてみんなで同じネタをやるんですから、そこに独自性は基本的にはない。落語というネタを使って、どれだけ自分という人間を出すかという、そういうところが落語は面白いですよね。

何を継承し、何を進化させるべきなのか?人間としての独自性が求められる落語の可能性

話芸として落語のテクニックをビジネスシーンで活用するというメソッドは、これまでも目にしたことがありました。しかし今回立川吉笑さんのお話をお聞きすることで、もう少し概念的に落語を捉えることでき、愛され続けるために必要な関係構築のヒントを得られたような気がしました。

企業のブランドやカルチャーを引き継いでいこうとすると、どうしても守りの意識が働いてしまいます。しかし落語という歴史ある世界においては、継承する「伝統性」と、時代に合わせて進化する「大衆性」の絶妙なバランスがあってこそ続くことができるーーそんな吉笑さんの考え方に、強く共鳴しました。

これからの時代、継承すべきものと進化させるべきものを個人が解釈をして行動に移すことが求められていくはず。そうすることでより多様で豊かな企業や組織が形成される、そんな世界が想像できました(編集部)