東京大学・河炅珍助教「現在の動画ブームと、1950年代のPR映画に共通する“仕掛け”がある」

text by Kento Hasegawa
photo by Asami Uchida

Public Relations(以下、PR)は「小手先のテクニック」ではない。メディアバイイングといった狭い領域に収まるものでもない。このPR Table Communityでも、あらゆる角度から実践者へのインタビューを通じて、その証明の糸口をつかんできました。

では、PRは実践者がいる現場のためだけのものなのでしょうか?

PRを歴史社会学の観点から捉える研究者がいます。現在、東京大学大学院情報学環助教を務める河炅珍(ハ キョンジン)さんです。(※所属・職位は、インタビュー当時/2018年6月)

19世紀から20世紀におけるアメリカと日本のPR事業を詳細に分析し、その意味を説いた『パブリック・リレーションズの歴史社会学──アメリカと日本における〈企業自我〉の構築』(岩波書店)を2017年に上梓。現在もPRの歴史的価値を探究し続けています。

今回は、現在のPRで注目を集める「動画」の事例が、1950年代の日本で展開されていたことなどを含め、その歴史的な見地を河先生に教わりました。

日本におけるPRの過去から現在、そして未来までを見つめてみると、PRにおいても「歴史は繰り返す」という言葉は本当なのか。そうであれば、いまの僕らは、いったいどのような歴史を体感しているのか。その予感を得るにふさわしい時間となりました。

———-

*本記事は、2018年6月に実施したインタビューを要約・再構成したものです。


Profile
河 炅珍さん  Ha Kyungjin

東京大学大学院情報学環助教
1982年、韓国生まれ。韓国梨花女子大学卒業、東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。現在、東京大学大学院情報学環助教。専門は、社会学、メディア・コミュニケーション研究。主な論文に、「パブリック・リレーションズの条件――20世紀初頭のアメリカ社会を通じて」『思想』1070号(2013年)、「『公報』、あるPR(パブリック・リレーションズ)の類型――1960年代、韓国における政府コミュニケーションをめぐって」『マス・コミュニケーション研究』79号(2011年)など。


PRは、なぜ必要になったのか

企業におけるPRの必要性は、時代と共に移り変わってきました。たとえば、従業員の労使関係に焦点を当ててみるとしましょう。

戦後の1950年代は朝鮮戦争を契機に日本経済が伸張するなかで、労働組合運動が拡大され、従業員との問題が起きるなど、対象とすべき相手がはっきりと見えていました。1960年代になると消費市場が活性化し、「従業員=消費者」という図式が生まれます。従業員は自社商品を販売/購買してくれる、もっとも力強い顧客になりました。

一方で、1970年代には公害問題など高度経済成長の弊害が表面化し、消費者や労使関係に加えて企業の社会的責任が問われ、今で言う「CSR」の考え方が持ち込まれはじめます。

1980年代はバブル経済を経て企業が大規模化していき、対象とすべき人材の数が増えはじめます。1990年代以降からはグローバル市場の波の中で、あらゆる国に抱えている工場の労働者に合わせた、それぞれで違う労使関係の問題も生まれました。

このように大きく10年単位で切っても、企業が「何/誰を見つめているのか」が変わり、それに合わせてPRの必要性も変わってきました。

そして、私が執筆した『パブリック・リレーションズの歴史社会学』でも触れていますが、そもそも近代的な企業、あるいは現代社会の企業が「なぜPRを必要としたのか?」といえば、一定の「企業イメージ」を抱かせられなかった時代が長く続いたことが理由のひとつにあると見ています。

『パブリック・リレーションズの歴史社会学』

戦後の大企業が手がける「PR映画」が意味するもの

企業として存在し、事業も巨大化/複雑化していくけれども、それらを「いち企業」の行いとして認知させられていなかったわけです。そこで問われたのがPRの必要性でした。たとえば、アメリカの通信会社「AT&T」では、社員を自分たちの企業広告モデルとして起用するなど、企業活動と人々を結びつけ、認知させようと考えたのですね。

同様のことは戦後すぐの日本でも起こっています。いま、その変化の過程として私が興味を持っているのは「PR映画」です。私は昨年から企業映画における関係性、つまり、企業にとっての「わたし」と「あなた」というテーマで研究を続けています。この場合の「わたし」は企業であり、「あなた」は従業員、顧客、あるいは企業のある地域住民にあたります。

PR映画は企業がスポンサーとなり、岩波映画製作所といった当時の製作会社に委託して作られていました。発注者は国鉄(現在のJR)、石川島播磨重工業(現在のIHI)、資生堂、電源開発など、多様で、なかでも戦後すぐの1950年代は、おおよそ上映時間60分未満ほどの短編映画にとっての黄金時代を迎えます。

その背景には、戦時中に映画製作の人材が大量に育成されたことがあります。彼らは国策としてのプロパガンダ映画を製作していましたが、戦後には発注元であった国家を失い、GHQによる民主化制作に使われる教育映画などを手がけました。

さらに、1950年代半ばからは経済発展につれて、産業界からの発注を受けるようになっていったのです。短編映画がプロパガンダのためのツールから、民主化の教科書を経て、産業のPR広告メディアとして機能を移してきたのですね。

製作された映画の利用については現存する資料が少ないのですが、当時の機関紙やPR誌によると、社内の大広間や現在でいうショールームのような場所で上映されたようです。自社を言葉と共に映像で宣伝することで、地方にいる潜在的な従業員をリクルートする目的もありました。

目的は宣伝にあらず。描くのは企業との「つながり」

面白い事例として、石川島播磨重工業による1950年代のPR映画『おやじの日曜日』(1959)を紹介しましょう。

よくある「PR映画」といえば、ダムの建築現場を丹念に描くようなドキュメンタリーが思い浮かぶかもしれません。しかし、『おやじの日曜日』は劇映画のかたちをとっています。

映画として面白く、ストーリーがあったほうが観衆は引き込まれやすいことを、製作する企業も当然に知っていたのです。これらの劇映画スタイルのPR映画では、企業と利害関係者の関係性がわかりやすく、なおかつ面白く表現されています。

『おやじの日曜日』で、登場人物の「父」はIHIで働いています。仕事に悩む若手社員を誘って酒を飲みにいくのは、実存した石川島播磨重工業の組合の建物です。そこで飲みながら会話する様子を見せたあとで、「父」が過ごす休日が描かれます。

家族が団らんし、東京の名所である上野動物園や帝国劇場を訪れ、「東京の休日」を満喫する姿が映し出されていきます。さらに相談に乗った若手社員は、実は「父」の娘と恋人関係だとわかって……と、映画は展開します。

このPR映画を誰に向けて企画し、どこで上映したのか。一つの可能性としては、主には地方の若い青年たちです。「石川島播磨重工業に入社し、東京という素晴らしい場所を満喫しながら、家族的な雰囲気の中で仕事をしてほしい」という意図が、その裏にはあったのだろうと推察できます。

あるいは、資生堂は1950年代に、当時は高価で珍しいカラーフィルムでPR映画を製作しています。タイトルは『銀座ラプソディ』(1958)。松竹が手がけています。この映画には資生堂の商品は全く登場しませんから、広告や宣伝が目的ではありません。資生堂がこのPR動画で伝えたかったのは、新しいライフスタイルそのものです。

内容は、銀座で働くおしゃれな4人の女性たちによる恋物語です。華やかな衣装を着て、週末の伊豆旅行も大衆交通は使わず外車に乗るシーンも出てきます。1950年代における「美の基準」や「ファッションの最先端」はアメリカにあったからでしょう、アメリカ人の母と日本人の父の間で生れた女性も登場します。

日本の女性を主人公として描きながら、このアメリカから来た女性との交流を描く。そこでも何がしかの「つながり」を作ろうとしているところに、この作品の面白みがあります。

戦中期において、女性たちは化粧することを許されませんでした。化粧品産業は戦後に市場の立て直しから行わなくてはならなかった。資生堂にとって最初に成すべきことは、自分たちの化粧品を売ることではなく、日本の女性たちに対して「化粧の喜び」を伝え、趣向や趣味として奨励していかなければなりません。

そこで新しい価値、あるいは文化が出来上がったうえで、販売を展開していく。そうすれば、自分たちのシェアも確実になっていくと考えたのだと思います。

現在の動画ブームは、1950年代のPR映画に予見されていた?

私がなぜ1950年代のPR映画に興味をもったのかといえば、現在はまさに、この「PR映画の時代」にもう一度戻ってきているのではないかと考えたからです。

テレビCMは短い時間の中で、物語を完結させなければなりません。消費社会であれば消費に対する欲望が刺激されればよく、CMでも奇抜なアイデアや美しいモデルが求められてきたはずです。

しかし、消費社会そのものが飽和状態になっていくと、企業は人々に価値ある物語を説明するための「時間」を欲しはじめました。今ではYouTubeに企業製作の動画が流れ、広告祭でも動画部門が設けられるのも一般的です。日本の広告代理店が動画に注力している話もよく耳にします。

先ほど、PRの必要性として、「一定の企業イメージを抱かせられなかった」ことを挙げました。それは言い換えるなら「自我/アイデンティティの確立」です。

この社会における自分たちのアイデンティティ、あるいは企業の位置づけをあらためて明確にすることを現在の企業が求められているとするならば、この循環の起点となった1950年代の映画にこそ、現在につながる手がかりがあるだろうと考えたわけです。

PRの歴史を振り返ると、あらゆる企業にとっての「自我の確立」を表現するとしたら、私は「友達づくり」だと思います。社会のあらゆる手段、あるいは利害関係者に、PRというコミュニケーションを通して自我を承認してもらうことで、友達となろうとする。その関係構築の歴史こそが、PRの歴史でもあると捉えています。

広告、プロパガンダ、PRはいかに区別できるか

なぜ、「友達」という言葉を思いついたのかといえば、研究を進める中で「広告、プロパガンダ、PRはいかに区別できるものか」という問いを多く寄せられることがきっかけでした。この3つは社会において存在意義が異なります。それぞれをキャッチフレーズ的に言い換えてみましょう。

プロパガンダは“Obey Me(=私に従いなさい)”です。さもなければ、あなたの身の安全は保障できません、というメッセージです。広告は“Buy Me(=私を買いなさい)”でしょう。購買によって魅力的なライフスタイルが送れるけれど、それを選ばなけれな魅力的になれないという一種の差別的な表現でもあります。

それに対して、PRは“Love Me(=私を愛してください)”、よりわかりやすく言えば、“Recognize Me”、あるいは“Approve of Me(=私を認めてください)”なのです。企業活動や社会貢献を伝えるだけで、何も相手に求めてはいないようで、実は「承認」を望んでいます。この関係性に近いものは「友達」ではないかと考えたんですね。

これまでPRを行う企業は、「自分が見せたい自分」だけを見せようとしたり、疑似の自我や偽物の友情を作ってきたりしたのではないか、という批判から自由にはなれなかった時代があったと思います。PRや広告が邪魔に思われた時期もあったかもしれない。

ただ、現在のようにインターネットが整備され、TwitterやFacebookで「会社を擬人化」したアカウントで発信することが当たり前にもなってきました。ネットというコミュニティに限っていえば、企業ではない私たち「個人」が疑似的な自我でコミュニケーションすることも珍しくありません。

そういった環境下において企業が情報発信をしないとなったら、その態度に対して私たちは閉鎖感を覚えると思います。人々の感覚が変わり、技術的な進化によって「情報は常に循環していなければならない」という暗黙知も生まれた。その点でも、現代の企業はPRを「やらざるを得ない」という状況にあるのでしょう。

 

———-

<編集後記>自我を承認してもらい、友達になるための関係構築

この言葉がかなり印象的でした。「会社(法人)として信頼される」ということは、かなり難しいことのように思えてしまいますが、このように「ヒト(個人)として」と置き換えてみると、実はとてもシンプルなものではないでしょうか。自分が何を目指しているのか将来(ビジョン)を語る、お世話になっている人には状況を報告する、悪いことをしたら謝る……。このような当たり前の関係構築を、会社としてどのように実践していくべきか。そのヒントは、これまで私たち人類が歩んできた歴史に隠されているのかもしれません(編集部)

PR Table Community