テクノロジーの発展により、あらゆる場面でコミュニケーションに変容がもたらされる時代がやってきました。企業と消費者、企業と社員、地域と個人——ステークホルダーとの距離感や関係性にも、大きな変化が訪れています。

医療の現場でも例外ではありません。高度に専門化が進む医療体制と、現代の複雑化した病気のスタイルのはざまでは、「病気を見つけて治す」という従来の医療では解決できない問題が増えてきています。それに伴い、“医師と患者の関係構築”にも、これまでにはない新たなアプローチが求められるようになりました。

今回お話を伺ったのは、東京医療センター臨床研修科医長であり、プライマリ・ケア医として、医師と患者の新たな関係を模索し続けてきた尾藤誠司さん。臨床現場におけるコミュニケーションの変化についてお話を聞かせていただくと、単純に患者との関係性だけではない、“人生そのもの”への向き合い方のヒントが見えてきました。


Profile

尾藤誠司 さん Seiji Bito
東京医療センター 臨床研修科医長・臨床疫学研究室長
1965年、愛知県生まれ。1990年岐阜大医学部卒。国立長崎中央病院,国立東京第二病院(現・東京医療センター),国立佐渡療養所に勤務。95~97年米カリフォルニア大ロサンゼルス校に留学し、臨床疫学を学び、医療と社会とのかかわりを研究。総合内科医として東京医療センターでの診療、研修医の教育、医師・看護師の臨床研究の支援、診療の質の向上を目指す事業にかかわる。著書に『「医師アタマ」との付き合い方』(中公新書ラクレ)、『医者の言うことは話半分でいい』(PHP)ほか。趣味のロックバンド「ハロペリドールズ」ではボーカルと作詞作曲を担当。


「メッセージ」を持たない高度なデータ解析結果は、人を幸せにしない

 医療が高度に専門化する一方で、患者をとりまく社会環境の情報化が進んでいます。そんななか、医師と患者のコミュニケーションも大きく変容しているのではないでしょうか?

尾藤誠司さん(以下、尾藤):私はまさに「医師と患者がどのように向き合っているのか」をテーマに臨床の現場に立ち、研究に取り組んでいます。そこで最近危機感を感じているのが、過度に医療の現場が情報化されてしまうことなんです。

20年後の社会はまちがいなく人工知能、IoT実装社会になります。ビッグデータによって分析されつくした情報に直面したとき、人間というものは脆弱すぎるんじゃないかという懸念があるんですよ。

― 情報に対して脆弱すぎるとは、具体的にどういうことでしょうか。

尾藤:SNSのデータを分析していけば、その人の社会的なプロファイルだけでなく、無意識の深層心理さえも浮き彫りにできます。ビッグデータによって、「自分が理解していない自分」すら分析できてしまっている状況はすでに始まっています。

高度に分析された個別の解析データを、あたかも“意思をもっている”かのように、人工知能が情報として送ってくる。当然客観的な情報です。すると、なんとなく正しいような気がしてしまいませんか?

― たしかに、無条件に信用してしまうかもしれません。

尾藤:しかし客観的であればあるほど、実はそこには何も「メッセージ」はありません。情報というものは、自分のなかに入って咀嚼されてはじめて価値をもつはずです。それなのに、仮に「ビッグデータ解析に基づくと、あなたと奥さんの相性は17%です」と言われたことを鵜呑みにしてしまったとしたら、すごく生きづらいですよね。

もともと仲が良かったのに「そうか、相性17%か……」と、夫婦の間に暗い影がさしてしまうかもしれません。「情報をどう受け取り、どのように決断に生かしたらいいのか」といった経験値がない、つまり情報に対して脆弱性が高いと、あたかも夫婦関係を心配しているかのように発信される、単なる“情報”に振り回されてしまうんです。

このように、「情報への脆弱性が招く人間らしい人生の危機」というのが、今私が持っている、コミュニケーションに関する仮説です。何の根拠もない“腐れ縁”を大事にするような、人間らしい価値判断が失われてしまうディストピアがすぐそこにあるんじゃないか。そしてこのディストピアは、まさに今の医療の現場そのものなんじゃないか? と。

― その例えで言うと、人工知能が医師、人間が患者ということになるでしょうか。

尾藤:そのとおりです。現代の医師は、客観的なデータを用いて分析をし、エビデンスをもとに、患者の健康に関するリスクや危機を伝える仕事をしています。そこには“人間として”患者を心配する気持ちや意見は介在しません。医師個人の「思い」は介在させないように、徹底して教育されるわけです。

一方で患者が「何を健康だと考え、何を大切に人生を生きていきたいか」というのは、当然人によって違います。たとえば医師から見れば「喫煙は健康を害する」、これは明白な事実です。でも、たばこを吸う人には吸う理由があって、そこから得ているものもあるはずですよね。

それに対して、「血液がドロドロになって生命の危機ですよ」と客観的なデータに基づいて伝え続けたらどうなるか。患者は「呪い」にかかるんです。いきなり人生が、「血管が詰まらないように気をつけていくこと」だけにシフトチェンジしてしまう。

― それではとても味気のない人生になってしまいますね。

尾藤:はい。その行動が「正しいかどうか」という軸で言ったら、正しいです。でもそのかわり、人生が面白くなくなる。私たち医師は、健康に関する情報を大事な価値だと思って伝えていますが、せめて患者の人生から面白さを奪ってしまうことに対し、自覚的でなければなりません。

データに基づいて今後の病気の進行や治療の成果を伝えるだけなら、血の通っていない人工知能のほうが、医師よりよほどうまくできるでしょう。医師の役目が今のまま「正しいことを言う」だけだとするならば、医師はまさに“オワコン”です。

― オワコン……、つまり「終わっているコンテンツ」であって、もう古いということですね。

尾藤:はい、それはもう古いタイプの医師なんです。患者や家族など、病を取り巻くステークホルダーが「どういう覚悟をもって、何に向き合っているのか」そこをテーマに向き合わない限り、逆に患者を不幸にさせていくだけのような気がします。

対立が対話を生み、はじめて医療者と患者はともに問題に向き合える

― 医師と患者の関係性に疑問を抱くようになったのは、なにかきっかけがあったのでしょうか。

尾藤:私の実家は、実は美容院なんです。美容師である母と医師である私の仕事ぶりを対比してみると、「サービスの提供者とクライアントの関係性」の違いに気づきがありました。

私は医療の世界の価値基準に基づいて、「患者のためになる」と思うことを精一杯実践してきました。でも、「本当に患者にとっていいことなのか」と思う瞬間も多々出てきます。延命治療の考え方などはその一例です。そのジレンマは、患者を思う医師なら誰でも陥ると思います。

あるとき、ふと美容師とお客さんの関係について考えてみたんです。お客さんが「あの女優が好きだから、同じようなボブにしてください」とリクエストするとします。美容師は、「この髪質や顔の形では、同じスタイルは無理でしょ」と思ったとしても、そこは抑えて「かしこまりました」とリクエストに応じるのが一般的。でも私の母は「あんたにはボブは似合わん!」と平気で言ってしまうんですよ(苦笑)。

― 豪快ですね(笑)。

尾藤:「客商売なのに、お客に言い返したらあかんやろ」と昔は思っていたんですけど、もしかしたら、それはそれでいいのではないかと、医師になって10年くらい経ってから思うようになりました。美容師に「あんたには似合わん!」と言われたら、お客さんは「なんですって!」と怒りますよね。そこに立場の対立が生まれる。“対話”の始まりです。

美容師はプロフェッショナルですから、よりよい解決策を知っていても、顧客との対立を避けるため「かしこまりました」と受け容れるのが普通です。客を怒らせればもう来てくれなくなるかもしれず、クライアントのほうが立場が強いからです。ヘルスケアの場合は立場が逆転していて、原則としてプロフェッショナルの価値観が場を支配しています。だから当事者である患者のほうから対立を生むことで、当事者が損をする構造になっているんです。

でも本来は、「大事なものは、専門家と当事者それぞれに違う」というのが当たり前です。ですから医療の現場でも、患者は「私が今大事なのは、それではなくこれなんです」と言ってみたほうがいい。そこから対話が始まりますから。

― とはいえ、「お医者さんのほうが病気に関しては専門家だし、口を出していいのか?」という遠慮が患者にはあると思います。

尾藤:そうですね。そういった権威勾配はどうしても生じてしまいます。それを踏まえた上で大切なことは、「“人”が問題なのではなく、“問題”が問題なのだ」ということを、互いが常に意識しておくことです。

対立が生まれると、どうしても「問題は人にある」と思いがちなんですよ。「私が正しいのか、それともあなたが正しいのか」という話になってしまう。でもそれは違います。例えるなら、「薬を飲むのか飲まないのか」、このテーマ自体が問題です。

問題を真ん中に据えて、医師は医師の立ち位置、患者は患者の立ち位置から問題を見つめて、向かっていくこと。「薬を飲んだほうがいいこのような根拠がありますよ」「でもこういう事情で飲みたくないんです」と互いにカードを出し合って検討していくことができれば、相手を信用できるようになってきます。

― 問題を問題視できれば、確かに健全な対立が生まれますね。

尾藤:このとき、相手を“信頼”する必要はありません。相手が言っていることを“信用”できればいいんです。人を信頼してしまうと、「言うことを聞かなければいけない」という、ある種の呪いがかかってしまいます。縛られて、やがて逃れたくなってしまいますから。

この「信頼はしないけれど信用する」というのはすごく難しいことです。私も腑に落ちるまで10年くらいかかりました。しかし、この話は医師と患者だけでなく、あらゆるステークホルダーの関係構築に共通していえることだと思います。

患者に必要なのは、医療への心得ではなく「医師のトリセツ」

― 場を支配する側に立つ医療者は、患者と対立するための仕組みをつくることが大切なんですね。では患者側は、医療にかかる場合にこのように臨むべき、という心得のようなものはあるんでしょうか。

尾藤:対話を生んでいくための心得はプロフェッショナル側が持っていればいいもので、患者側には必要ないと思っているんですよ。

心得よりは、どちらかというと「医師のトリセツ(取り扱い説明書)」のようなものが必要かな、と。自分にとって利益になるようなコミュニケーションのとり方を知っておくと便利ですよね。

患者が向き合うべきなのは医師ではなくて、自分の「健康不具合」そのものです。医師はあくまでも、健康不具合=病気をうまく手懐けるために存在している“助手”のようなものだと思ってもらえればいいんですよ。不具合を良い方向に修正するために、チームになって作戦会議をしていけばいい。

― 最近はインターネット上でも玉石混交の情報が氾濫しています。患者側も知識を身につけるべきなのかなと思う半面、根拠のない情報を鵜呑みにして、医師を困らせているという話も聞きますが……。

尾藤:患者が専門的な知識や解釈を持っていたとしたら、専門家は必要ないですよね。患者は患者自身にしか理解できない、大切な根拠と知識を持っている。しかしそれは「医学的知識ではない」ことを自覚するのが大切です。よく「賢い患者になりましょう」という言い回しを聞きますが、賢いというのは、病気のことをいろいろ勉強したり知識を身につけたりしましょうということではありません。

― なるほど、患者の持っている知識は、あくまで自身に起こる症状についてのもの、という認識を忘れてはいけないんですね。

尾藤:たとえばレストランにソムリエがいたら、ワインのことはソムリエに聞けばいいんです。「この年のブルゴーニュは日照がよくないじゃないの?」なんて中途半端な知識をお客さんが出してきたら、いいコミュニケーションにはなりません。そんなことよりも「今日は結婚記念日なんです」という話のほうがずっとずっと重要なんです。それは絶対、ソムリエには知りえないことだから。「当事者にしかわからない知識を専門家に伝える」ということをぜひ覚えておいて欲しいな、と思います。

バンドの即興演奏のように、「自己変容」を怖がらずに受け容れる

 尾藤さんはプライマリ・ケア医として、「病気を治すだけでは解決できない問題」の専門家だとご自身を表しています。現代では、病院は単純に「病気を治す」場ではなくなってきているということなのでしょうか。

尾藤:そもそも医療って、もしかするとそんなに役に立たないものなのかもしれません。病巣を外科手術で切除すれば根治するなど、わかりやすい病気に対してはとても役に立つんですが……。最近では、「ここに原因があってそれをつぶせば病気がよくなる」という、わかりやすい因果関係があって克服できるケースだけではなくなってきているのが現状です。現代の病気はもっと複雑で、慢性的な病気や痛みがなかなかよくならないケースが増えていると感じます。

― なぜそのようなことが起こっているのでしょうか。

極端な話をするならば、ホモサピエンス自体が複雑になっているのではないかと思います。「日々の食糧が得られて安全な場所で暮らせればいい」という本能から遠く離れ、人生を生きていくうえでの試練の表現型が複雑になってきたことで、健康不具合の表出も複雑になってきているんでしょうね。たとえば免疫系のシステムもかなりのところまで解明できてはいますが、まだまだ多くの免疫系疾患がそれだけでは解決しないんです。

病気のスタイルが変わってきているからこそ、対峙する医療のコミュニケーションも変わっていくべきなのだと思います。患者は、明快な克服モデルでは解決できない健康不具合に向き合い、専門家の力を借りながらも、「なかなか離れてくれない居候を同居させる」ような感じでうまくつきあっていくしかありません。何を大事に考えているかは患者それぞれに違う。「患者の人生」という物語を大切にしながらともに進んでいくことが、これからの医師には求められているのではないでしょうか。

― それを実現するために、医師と患者の「対話」が大切なんですね。尾藤さんは医師を務めるかたわら、バンド活動をされているそうですね。活動を通して、医療における「対話」について重要なヒントを得たそうですが……。

尾藤:ロックやジャズでよくおこなわれる「インプロビゼーション(即興演奏)」の話をしてもいいでしょうか。

旧来型の「調和」って、シンフォニーだったと思うんです。楽譜があって指揮者がいて、その意図通りにすべての楽器が奏でられる。統一された音楽こそがすばらしい、という価値観です。

それに対して、ジャズやロックの世界では、インプロビゼーションというスタイルが生まれてきました。楽譜も見ない、コードすらおかまいなしにとりあえず音を奏でる。たとえばベースがブーンと鳴ったとき、ギターはカッティングにするのか、ストロークにするのか、ソロにするのかというのは、その場の「何か」で決まるんですが、何で決まるのかというと顕在化できない。予定通りにすべてが進むのではなく、相手が奏でたその時のその音に対応して、自分の中から何らかの音が生まれる。それが気持ちいいんです。

これこそが対話なんだな、と、ある日気がつきました。自分とは違う楽器のリズムに合わせるような、合わせないような返答をしていくことで、また相手がインスピレーションを得て返してくる。そこで新たに発見を重ねていくから、対話の後には、自分がなんとなく変容しています。

 変容、ですか。

尾藤:はい、自己変容です。自分が変わり続けていくこと、そのものが大事なんです。

ここで情報の話に戻りますね。本来、人間も社会も、絶対に止まることはありえません。放っておけば万物は流転していく。それに対して情報というのは、流転する万物を止めようとする要素です。データにより結論づけることで、物事を止めてしまう。

そして人間はおそらく、変わることが怖い生き物です。変わらざるを得ないのに、怖いから止めようとする。そのために人生を情報化して、先々に「これを達成するためにこの道を通らないといけない」というマイルストーンを置いていくわけです。そうすれば先が見えたような気がして不安が払拭されるからです。

― 人間が情報を得ようとするのは、変容が怖いから……、なるほど。

尾藤: 変容に対する不安を、完全に消し去ることは不可能です。ただ、不安の一切ない人生が面白く楽しいかというと、そんなことはないですよね。舗装された道路を走っていれば安心なのに、なぜ人はわざわざオフロードを楽しむのでしょうか。私はそこにヒントがあると考えています。おそらくオフロードが面白いのは、攻略するために作戦を練ったり、知恵を働かせて良いアイテムを手に入れたり、誰かに助けてもらったりという要素があるからだと思うんです。

恐怖で不安な人生を、それなりに愛おしく、面白く感じながら生きていく。医師はその手助けができる存在でありたいと、ずっと考え続けています。自分でもまだよくわかっていないことばかりなのですが、いずれメソッドとして落とし込むことが私のいまの野望です。そのために、医師と患者のあり方について、これからもずっと考え続けていくのでしょうね。

“対話”というリレーションにより、医師と患者はともに幸せを模索することができる

「情報だけで人は幸せにはなれない」「単に情報を与えるだけでなく“対話”そのものが大切である」、そして対話においては「問題を真ん中において、医師と患者がともに向かう姿勢が必要であること」。

尾藤さんが探り当てた解は、医療の世界のみならず、“人”対“人”の関係構築であるパブリックリレーションズのあるべき姿だと感じます。どんな立場や組織に属していたとしても、相手と“対話”ができているのかは、常にみずからに問い続けるべき問題であるはずです。

患者の人生にかかわるような会話が日々交わされる現場の最前線に立つ尾藤さんが、患者と医師のコミュニケーションのありかたについて、根源まで思索を深めているさまに大きな感銘を受けました。(編集部)

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