おもに経営戦略や経営理念、あるいは組織開発の文脈で捉えられることの多い「企業文化」というキーワード。企業がどんな価値観のもと、どんな意思決定をし、どんな価値を生み出していくのか。その根本に関わるものでもあります。

果たして、PRパーソンは「企業文化」をどのように活用し、いかに伝えていくべきなのでしょうか。

化粧品大手の資生堂は、企業文化を管轄する「社会価値創造本部 アート&ヘリテージ室」を擁し、その継承と活用に取り組んでいます。1世紀をゆうに超える会社の歴史のなかで、昭和初期から、いまで言う“オウンドメディア”である『花椿』を発行し、時代の変化に合わせて企業文化を世の中に伝えてきたのです。

今回は、『花椿』編集長としてそのリニューアルに携わり、広報部長を経て、現在はアート&ヘリテージ室の室長を務める上岡典彦さんに、資生堂における企業文化の成り立ちとその活用、そのなかでPRパーソンが果たすべき役割について伺いました。


Profile

上岡 典彦 さん Norihiko Ueoka

株式会社資生堂 社会価値創造本部 アート&ヘリテージ室 室長

1987年4月、資生堂入社。高知支店、横浜支店、広報室(当時)を経て、2009年第14代『花椿』編集長に就任。同誌のリニューアルに取り組み、資生堂創業140年、『花椿』創刊75年の2012年3月に新装刊させる。その後広報部に復帰し、2013年からコーポレートコミュニケーショングループリーダー、2015年4月から広報部長。2019年1月より現職。2016年6月から日本パブリックリレーションズ協会副理事長、2017年6月から日本広報学会理事を務める。


社名に込められた「革新の遺伝子」

―資生堂と言えば『花椿』、私も長らく拝読してきました。祖母も母も資生堂の化粧水を使っていて。化粧品メーカーとしてはかなり長い歴史がありますよね。

上岡さん(以下、敬称略):そうですね。当社は1872(明治5)年に日本ではじめての民間西洋風調剤薬局として創業しました。当時は江戸時代から明治になったばかり。創業者の福原有信は、東京大学医学部の前身である大学東校を出て、20歳そこそこで海軍病院の薬局長に上りつめた、当時としてはいわゆるエリートでした。けれども彼には、「医薬分業」を進めて国民にもっと良い医薬を提供したいという思いがあり、23歳のときに海軍を辞して薬局をつくりました。それが資生堂の前身です。

社名にある「資生」は、中国の『易経』の一節にある「至哉坤元 萬物資生(いたれるかなこんげん ばんぶつとりてしょうず)」という言葉から取られているのですが、これは「大地の徳を讃えながら、新しいものを生み出していこう」ということ。その思いは、いまでもずっと続いています。資生堂の企業文化を端的に表せば、「進取の気性」――つまり、これまでの常識にとらわれず、新しいことにチャレンジする気質だと考えています。資生堂が創業して147年経ちますが、それはDNAのように受け継がれている。その一貫性を非常に強く感じます。

―創業当時、東洋医学中心の日本で西洋医学を、そして独立した民間薬局を設立したところに、その気質が表れていたわけですね。

上岡:そうですね。そしてそれは商品にも表れています。資生堂は日本初の固形練り歯磨きを商品化したのですが、当時おもに流通していたのは粉歯磨きで、値段は1銭程度。しかも、実際には粒子が粗く、歯の健康を損なうようなものだったのです。そこで資生堂は高品質な練り歯磨きを、25銭で売りはじめた。はじめのうちは経営にも非常に苦労したと聞いています。けれども、良いものをつくり、提供していけばいつかは認められるはず。そこに揺るぎない信念があったのです。

―良いものが良いものとして評価されるためには、ある種、人々にそれを理解してもらうための取り組みが必要となってくると思うのですが、どんな施策をしていたのでしょうか。

上岡:「高品質」とともに、有信には指針がありました。「本物志向」です。有信は1900年、パリ万博を訪れました。当時パリまで行くのに、船で数カ月はかかったはずです。そこで世界最先端のものを見て吸収し、その後、アメリカへ向かいます。現地の薬局を視察したところ、「ソーダファウンテン」というものがあり、ソーダ水やアイスクリームを売っていました。そこで有信が「ぜひやりたい」と、1902年、ソーダ製造機からストローに至るまでアメリカから輸入してはじめたのが、いまの資生堂パーラーの前身でした。

まさに「進取の気性」が見受けられます。

上岡:当時のオピニオンリーダーと言えば、新橋の芸者さんでした。芸者さんたちが旦那衆を連れて、「資生堂にある喫茶室がとてもモダンなの」「ソーダファウンテンというものがあるらしいよ」と、足を運んでくれるようになったことで、「資生堂へ行けば、何か新しく面白いものがある」というイメージが広まっていきました。有信の「本物志向」が、評判を呼んだのです。

1924年には文化情報誌『資生堂月報』を創刊し、1933年には『資生堂グラフ』、そして1937年に『花椿』へと進化していきました。スキーやゴルフに興じる新しい女性像を表紙にしたり、パリで流行しているものやアメリカのハリウッドスターを紹介したりして、ほかでは出会えない、先進的な情報を発信していました。そうやって、「資生堂はハイカラでおしゃれだ」というイメージをつくったのです。

―企業広報誌というと、自社商品やサービスの紹介がおもな内容となりがちですが、それだけではなかった、ということですね。

上岡:商品だけでなく、より良い暮らし、より美しい生活を実現するにはどうすればいいのか。資生堂は「生活文化の提案」を一貫して行なってきたのです。資生堂パーラーは食の提案であり、1919年開設の現存する日本最古の画廊と言われている資生堂ギャラリーでは美の提案を、そして『花椿』は文化の提案を行ってきました。それらは、資生堂のイメージや、ものづくりに対する精神を、社会へ流通させていく強力な“文化装置”だったのです。

企業文化は、ヒト・モノ・カネに続く“第4の経営資源”

―資生堂にはもともと「企業文化部」があったのだとか。

上岡:いま私が在籍する「社会価値創造本部」は、2019年から「企業文化部」と「サステナビリティ戦略部」を統合し、新たな機能を加えて再編したもので、「サステナブル環境室」と「ダイバーシティ&インクルージョン室」、それと企業文化を管轄する「アート&ヘリテージ室」が設けられています。

そしてアート&ヘリテージ室の前身である企業文化部が創設されたのは1990年。現名誉会長の福原義春が社長に就任したのは1987年でしたから、福原の考えによるものと言っていいでしょう。福原は企業文化部の創設と同時に、芸術文化の振興とそれを通した社会創造に取り組むことを目的とした「企業メセナ協議会」の発足にも参画し、初代理事長を務めています。1990年当時、福原は、企業がこれまでのように経済成長だけを優先するのではなく、社会に対して何らかの貢献をすべき時代になっていくであろうことを見据えて、資生堂には企業文化部を、社会には企業メセナ協議会を立ち上げました。

もちろん、資生堂の企業文化は、福原のみの手によって形づくられたものではありません。彼は、資生堂が企業として培ってきたもの、それまでの歴代の経営者が一貫してきたものを改めて研究し、体系づけ、企業文化を「ヒト・モノ・カネに続く“第4の経営資源”」として活用していくことにしたのです。

―日本企業の多くがバブル経済による好業績に沸いた1990年当時、企業メセナの活動には、一見して事業と関連しないようなものもあったと記憶しています。そのなかで、貴社は文化活動をどう位置づけていたのでしょうか。

上岡:企業文化部を立ち上げることによって、あるいは企業メセナ協議会に参画することによって、何か新しくはじめたというよりは、それまで取り組んできた文化活動が企業活動にもいい影響を与えている、という確かな成功体験がありました。創業の地である銀座に資生堂パーラーをつくり、資生堂ギャラリーを開き、『花椿』を出版したことなどがその例です。特にギャラリーや雑誌はどちらかといえばコストがかかる一方です。

けれどもそれらの取り組みは、資生堂のイメージを確立し、社会とのつながりを生み出したと同時に、社員の拠り所にもなってきた。我々が勤める企業は、経済活動を通じてだけでなく、文化的に社会貢献ができる企業なのだ、と。私自身、そう考えて当社を志望しましたし、他の社員の多くもそうだと思います。企業文化がある種、暗黙知として機能してきたのです。

―こうしてお話を伺っていくと、一般的に「企業文化」とされているものと、資生堂における「企業文化」には明確な違いがあるように感じるのですが、貴社ではどう定義されているのでしょうか。

上岡:近い言葉としては「企業風土」というものもありますよね。ただ、資生堂では企業文化と企業風土を明確に分けています。福原がよく話していた言葉ですが、「企業文化は再現可能であり、普遍的な価値を持つもの。企業風土は再現性に乏しく、ストックすることができない」というものです。しかも、企業文化が経営資源として位置づけられるからには、容易に参照することができ、活用できるものでなければならない、と。

また、「企業の文化」と「企業と文化」ということも言っています。「企業の文化」というのは、企業活動を通して蓄積されてきた文化的資産であり、「企業と文化」は、文化支援活動を通じて社会とつながり、相互関係の中で培われてきた価値のこと。福原は「“社会”という言葉をひっくり返すと、“会社”になる」とよく言っていましたが、社会と会社は対立するものでも別個のものでもなく、互いに作用し合うものなのです。ですから、社会へ貢献したいという思いがあれば、会社にも社会から還流するものがある。それが資生堂の基本姿勢だと思います。

未来を語るには「アーカイブ」が必要

―それを踏まえて、資生堂における「企業の文化」を定義するとすれば、どういったものなのでしょうか。

上岡:創業者の子息であり、資生堂の初代社長である福原信三の言葉と思想に、いまでも全社員が大切にしているものがいくつかあります。一つは、「物事はすべからくリッチでなければならない」。“リッチ”というのは金銭的な豊かさではなく、心の豊かさのこと。二つめは「商品をして、すべてを語らしめよ」。品質本位の商品づくりをせよ、ということです。そして三つめが「ブランドは世界に通用しなければならない」。

これらの言葉を100年以上も前に発信していたのです。資生堂の本格的な海外展開は1957年以降ですが、1930年代には一度アメリカで販売を試みてもいました。いまでこそグローバルメーカーの仲間入りができましたが、創業当初からDNAとしてずっと受け継がれてきたものがあるのです。

―なるほど。

上岡:もう一つ象徴的なのは、「反資生堂スタイル」という言葉です。1916年にいまの宣伝部にあたる意匠部が創設されて以来確立されてきた「資生堂スタイル」に対し、1960年代以降、外部環境や時代が変わるなかで、自分たちの哲学を変えないための変革を続けてきました。たとえば、1966年の「太陽に愛されよう」というキャンペーンでは初の海外ロケを行い、日に焼けた女性の健康美を打ち出しました。それまで色白が美しいとされてきたなかで、大きな話題となりました。そうやって、資生堂は「変わらないために変わり続けてきた」のです。

―初代社長の言葉や、資生堂らしさを踏まえたうえでのカウンター的な表現ですよね。そういった企業文化はどのように社内で共有されているのでしょうか。

上岡:それはまさにいま、私たちが取り組んでいることでもあります。いまや資生堂は約4.6万人の従業員のうち、半数以上が外国籍の方となり、約80カ国の国籍の方がいます。展開する国や地域も120カ国ほどとなりました。社員が多様化することにより、以前なら暗黙知でなんとなく伝わっていた資生堂の企業理念が、共有できない側面も出てきたのです。

そこで、これまでお話ししてきたような資生堂のDNAを改めて見直し、今年2019年、新たな企業ミッションを定めました。それは「BEAUTY INNOVATIONS FOR A BETTER WORLD(ビューティーイノベーションでよりよい世界を)」というものです。そして、それを実現していくために定めたのが、6つのOUR DNA。「PEOPLE FIRST(ヒト本位)」「DIVERSITY(多様性)」「SCIENCE & ART(科学と芸術)」「JAPANESE AESTHETICS(日本の美学)」「UNCOMPROMISING QUALITY(妥協しない品質)」「OMOTENASHI(おもてなし)」です。

―資生堂はいまやグローバルカンパニーだからこそ、改めて言語化する必要があったわけですね。

上岡:そうですね。そして言語化できるのが企業文化の良さでもある。いま、16代目の社長を務める魚谷(雅彦)が就任以来、熱心に取り組んできたのは全世界の拠点を回るタウンミーティングです。そこで現地の社員と会い、資生堂が大切にしてきた企業理念や文化を直接語りかけてきました。また、私自身、広報部長時代に魚谷から教わったことの一つに、「最大のインターナルコミュニケーションは、メディアに取り上げられることだ」というものがあります。新聞やテレビ、ネットなどさまざまなメディアに取り上げられている内容を見て知ることで、社員たちはいまの資生堂の立ち位置や向かうべき方向性を確認することができるのです。

―最近ではメディアのみならず、SNSが普及し、情報発信元も多様になっていくなかで、企業文化を伝えるのはますます難しくなっている気もします。

上岡:何か一つの手段だけですべてを伝えきるのは難しい。ですからコミュニケーションデザインが非常に重要になってきます。伝える手段は多様化しているけれど、伝える内容には一貫性を持たせ、揺らいではならないのだと思います。そして、それを支えるのが企業文化なのでしょう。

ちょうど先日、銀座の映画館を訪れたところ、(ジャン=リュック)ゴダール監督の新作映画が上映されていて、彼によるこんな言葉があったのです。「わたしたちに未来を語るのはアーカイブである」と。それがまさに当社にも当てはまるものだと感じました。

当社には1992年、静岡県掛川市に開設された「資生堂企業資料館」があるのですが、私自身、『花椿』の編集長を務めるにあたり、数日間資料館へ通い、『資生堂月報』『資生堂グラフ』『花椿』と、過去のページをすべて読んで、何十枚ものコピーを取って一覧にまとめました。これまでの時代の変遷とともに資生堂はその時々、何を大切にしてどんな活動をしていたかについて、5年10年単位で区切って、年表をつくったのです。

非常に大変ではありましたが、そこが出発点でした。何か新しいことをやろうとするなら、過去の歴史を一度、自分のなかに取り込んでからスタートする。やはり、未来を語るためにはアーカイブ、すなわち「ヘリテージ」が必要なのです。資生堂には147年のヘリテージがあります。ですから、同じ年月だけ未来へ行ける可能性があると思うのです。

―最後にお伺いしたいのですが、企業文化をつくり継承していくに際し、PRパーソンの果たすべき役割はどういったものだとお考えでしょうか。

上岡:企業文化をつくるのはほかならない、企業で働いている社員たちと、ステークホルダーの方たちです。まさにそれは、企業活動そのものなんですよね、きっと。ですから、PRパーソンが企業文化を語れなければ、その企業の全体像を語ったことにはならないと思うのです。一つのプロダクト、一つのイベントだけを語り、メディアに取り上げてもらう――。確かにそれも企業の一側面であることは間違いありませんが、その企業の全人格、つまり「資生堂はこういう人です」と表しているとは言いがたい。ちょっとおこがましい言い方かもしれませんが、PRパーソンは企業文化を語れるようになってはじめて、PRパーソンたり得るのではないかと考えています。

―おっしゃる通りですね。

上岡:そして、企業文化は自社のものだけではなく、社会の理解があってはじめて形づくられるもの。ですから、社会に対して広く解放し、社会資産として活用されていくことが大切です。そのためにはまず、資生堂の企業文化、ヘリテージを社員に対して広く深く共有し、彼らがそれを誇りや「価値創造の源泉」として活用できるものとする。その環境を整えることが、いまの私のミッションだと考えています。 

企業文化を形づくるのは、企業活動そのものである

「100年企業」という言葉があるのは、それだけ企業を永続させていくことが難しく、稀なことだからだと言えるでしょう。ましてや、この変化の激しい時代、その難易度は増すばかりです。

東京・銀座での創業から150年近くを経て、資生堂の根幹には常に、これまで蓄積されたヘリテージ、そしてそれが物語る企業文化があったからこそ、グローバルカンパニーとして成長を遂げることができたと言えるのではないでしょうか。その企業文化が今年、改めて英語で「OUR DNA」として言語化されたのは、「変わらないために変わり続ける」を象徴することのように感じ取れます。

「企業文化を形づくるのは、企業活動そのものである」——。
その言葉を踏まえ、いかに企業文化を世の中へ伝えていくか。伝える手段が変わっても、どれだけ一貫性を保つことができるか。PRパーソンはそれを模索し続けていかなければならない。そう気づかされました。(編集部)

 

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